製薬業界を知る

2017/11/06

研究者として働く以上、「研究で成果をあげること」が求められることはもちろんですが、医薬品研究者の日常には、思わぬところに“リスク”があるといいます。元医薬品研究者である佐藤健太郎さんに、リアルな研究者の日常について語っていただきました。

企業の研究者というものは、常に他社との競争にさらされています。製薬企業同士の競争は、中でも熾烈なものといえます。競争を勝ち抜くために研究にのめり込み、寝食を忘れて実験に取り組むような研究者も少なくありません。

会社を離れても、仲間同士で顔を合わせて食事などしつつ、研究について熱く語り合うような場面もよく見られます。医薬研究という困難なプロジェクトは、こうした情熱のぶつかり合いがなければ、なかなか成功しないものでもあります。
もちろん、こうして熱心に研究に取り組むことは素晴らしいことではあります。ただし用心を怠れば、思わぬ手痛い失敗につながることもあります。今回は、こうした研究者を取りまく思わぬリスクについて書いてみましょう。

 

損害金額は数百億円にも 情報漏洩のリスク

損害金額は数百億円にも 情報漏洩のリスク
どの業種であれ、現代の企業は社内情報を守るために神経質になっています。しかし、医薬品企業の持つ情報は、他業種と比べても非常に重いといえます。たとえば医師に医薬の情報を伝えるMRなどの職種は、患者の病状などの極めて機密性の高い個人情報を取り扱います。これらが外部に漏れれば、金額でははかれない大きな損害を顧客に与えてしまうことにもなります。

個人情報を扱うわけではありませんが、情報漏洩に神経質にならねばならないのは、研究部門も同じことです。製薬企業研究者は、自分が扱っている化合物の構造、研究対象としている疾患名などはもちろんのこと、日常的な業務内容の全てが社外秘であるといって間違いではありません。

以前も述べた通り、製薬業界ではわずかなタイミングの差で特許権が他社に奪われ、数百億円、数千億円という損害につながることがありえます。どんな小さな事柄であっても、うかつに外部に漏らすことは許されないのです。

化合物の構造のごく一部、関連する体内物質の名称といった断片的な情報だけでも、他社の研究者に大きなヒントを与えてしまうことがあります。プロの研究者の知識と勘というのは恐ろしいもので、ごくわずかな手がかりからでも、他社の研究内容のかなりの部分が読み取られてしまいます。使っている試薬や細胞の種類、おこなっている反応といった程度の情報でさえ、「ははあ、この会社はこういう研究をしているのか」と悟られてしまうことにつながります。

このようなわけですので、学会などで知り合った他社研究者に対してちょっと口を滑らせるだけでも、大変な損害を自社に与えてしまうことがありえます。「これくらいなら大丈夫だろう」と、ネットの掲示板やSNSに業務に関する愚痴や相談事を書き込むことも、もちろん厳禁です。データの入ったノートパソコンやUSBメモリなども、多くの場合社外持ち出し禁止ですし、クラウドの利用についてもかなり慎重なところが多いと思います。

意外に危険なのが、仲間などと店に行った時の会話です。研究者というものは、骨の髄まで研究のことが染み込んでいる人々であり、酒を飲むと最初はたわいもない話をしているのに、酒が回り始めると話題が研究のことに戻ってきてしまうことがままあります。こうした時は気も緩んでいますし、つい声も大きくなるので、店内の他の客に会話が筒抜けになってしまいます。

筆者自身、会社の同僚と飲みに行った時、隣の個室から何やら専門用語が聞こえてくるので聞き耳を立てていたら、まさにライバル企業の研究員たちであり、彼らの研究テーマ、進捗状況がわかってしまったことが実際にありました。特に研究所が多い土地柄では、油断大敵です。

 

小さなミスが甚大な事故を招くリスク 実験中の事故

小さなミスが甚大な事故を招くリスク 実験中の事故
もうひとつ、研究者が気を配らねばならないリスクが、実験中の事故です。もちろん大学の研究室でも、事故に気をつけるべきであることは変わりありませんが、製薬企業での事故ははるかに大きな危険につながりうるからです。

ひとつには、企業での実験は一般に規模が大きいことがあります。筆者が担当していた有機合成分野でいえば、学生時代には多くても試薬の量が数グラム程度に過ぎませんでした。しかし企業では、研究部門でもその数百倍規模の実験をおこないますし、生産部門ともなればトン単位に及びます。当然、発火や爆発などの事故を起こしてしまえば、その規模は巨大なものになります。

小規模では問題なかった実験のスケールを大きくしただけで、危険が生じることもあります。実験の規模が大きくなると、反応によって生じる熱が逃げにくくなるので、内部の温度が急上昇して反応が暴走してしまうことがあるのです。こうした実験の進め方は、経験を積みながら少しずつ覚えていくしかありません。

もちろん薬理関連の実験でも、実験動物に噛まれたり、注射針を誤って自分の手に刺したりといったリスクもあります。ウイルスや放射性物質などを使う機会も多く、これらの取り扱いには細心の注意を必要とすることはいうまでもありません。

もうひとつ、製薬企業で扱うのは、医薬を目指した化合物であり、多くは強い生理作用を持っています。人体に投与される医薬は、多くの場合ごく微量、低濃度で用いられますが、研究者はこうした化合物を大量に、ほぼ純度100%の状態で取り扱います。このため、誤って体内に取り入れてしまえば、全く予想もしないような作用が生じる可能性があるのです。

たとえば、血管拡張作用がある化合物を研究していた人など、ごく微量が皮膚に付着しただけで、手が真っ赤に腫れ上がってしまったという事例も聞いたことがあります。実験者だけでなく、その実験者が触れたドアノブを握っただけの人さえ手が腫れ上がったといいますから、その効果たるや恐るべしです。

 

成果をあげるために必要なもの━キホン的な自己管理能力

成果をあげるために必要なもの━キホン的な自己管理能力
こうした事故を防ぐためには、結局のところ基本を徹底すること以外にありません。白衣や防護眼鏡、手袋、マスクといった装備をきちんと身につけること、実験台の上は常に片付けておくこと、実験は一人ではおこなわず、誰かがそばにいるときにのみおこなうこと、温度や圧力といった実験状況のチェックを常に怠らないことなどです。これらは当たり前とはいえ、慣れてくるとついつい怠りがちになります。

筆者は企業在籍時に安全衛生係を担当していたことがあり、実験事故の事例を学ぶ機会がありました。大きな事故は、たいてい単独の要因ではなく、いくつかの偶然や不運が重なって起こります。しかし一つ一つの要因は、日常の実験で常に起こりうる程度の事柄――たとえば実験台に余分なものを置いていたとか、白衣の袖に引っかけてビンを倒してしまったというような、ごくありきたりの事柄なのです。安全な実験の進め方とは、結局これらの小さなリスクを、ひとつひとつ丹念に排除することに尽きます。

そして事故が起こりやすいのは、やはり焦っているときや疲れているときなど、万全の精神状態ではないときです。もちろん、日程の関係などで、ある程度無理をして急ぎの実験を入れなければならないケースはありますが、そういうときほど慎重に実験を運ばねばなりません。そしてふだんから、余裕を持った実験計画を立てておくことが何より重要でしょう。

いくら頑張って仕事をしても、体を壊したりしては何もなりません。事故や情報漏洩で、周囲や会社、社会全体に迷惑をかけるなどは論外です。精神的にも肉体的にも健康であることこそ、素晴らしい成果を挙げるための第一条件と心得て、日々の研究に励んでいただきたいと思います。

※本記事の内容は筆者個人の知識と経験に基づくものであり、運営元の意見を代表するものではありません。

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医薬品研究者の1日のスケジュール・環境・働きかたとは 『医薬品クライシス』著者・佐藤健太郎氏が語る、医薬研究職の世界 Vol.8

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佐藤 健太郎

1970(昭和45)年、兵庫県生まれ。東京工業大学大学院卒業後、国内製薬メーカー研究職として勤める傍ら、有機化学について広く世間に興味を持ってもらいたいとの思いから1998年にウェブサイト『有機化学美術館』を開設。2007年末、ライターとしての活動に専念するため勤めていた企業を退職。2009年から2012年4月まで東京大学大学院理学系研究科広報担当特任助教。現在、化学・医薬を専門分野とするフリーサイエンスライターとして活動中。著書に『医薬品クライシス 78兆円市場の激震』 新潮社(2010年)、『世界史を変えた薬』 講談社(2015年)、『医薬品とノーベル賞 がん治療薬は受賞できるのか?』 角川新書(2016年)、他多数。

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