「生産性」現代ならではのもう一つの面とは|ドラッカーに学ぶ生産性の高め方(前編)

近頃、「生産性」という言葉をよく目にします。それは「いかに効率的に働くか」という文脈で語られ、あたかも国民全員の「錦の御旗」のように扱われています。そこで編集部が考えたのは、「そんなに重要なことなら、とことん深掘りして考えたい」ということ。その基礎にして原則となる部分を、経営学の世界的権威であるP.F.ドラッカーに求めました。解説してくれたのは、そのドラッカーを研究する井坂 康志さん。「生産性」という言葉の捉え方と、自身の生産性の高め方を聞きました。

※ドラッカーの表現や用語は、固有の背景を持つものがあります。そうした用語には、解説したページへのリンクを設けてあります。ぜひ併せてご覧下さい。

ドラッカーはなぜ読まれ続けるか

ドラッカー著書・解説書
―――亡くなって14年近くにもなるのに、今でも人気がありますね。新しい解説書などもたくさん出ています。

そうですね。ユニクロの柳井正氏やセブン&アイ・ホールディングスの伊藤雅俊氏、山崎製パンの飯島延浩氏など代表的な産業人はもちろんですが、昨今では学校の先生や病院の医師・看護師、主婦の方、就職活動を行う学生にも活用されているようですし、ゴルフや自転車競技、相撲部屋などのスポーツ関係でも上手に活用されて成果があげられていると聞いたことがあります。

―――そのような啓発性が今なお継続しているのはどうしてだと思われますか?

ドラッカーはとてもクールな思想家なのだと思うのですね。しかも、語った内容が凝縮されているので、普遍性と個別性両方を兼ね備えている。読んだ方が背中を押されるように、自分固有の問題として実践していく傾向があるのです。教育されているという自覚なく自己変容を促されるのは、ある意味自己教育の理想だと思うのですが、そのような特別な触発性がドラッカーにはあると思います。
一例として、ドラッカーはマネジメントを語りながら、そのマネジメントで自分自身をも養い、成長させてきた人です。書き手として40冊近い書物、大学教授としてすぐれた教育、コンサルタントとして数百もの有名企業を指導しました。いずれも一流の仕事でした。身をもって示された有効性が、ドラッカーを今もって影響力あらしめる理由の一つだと思います。

―――その特徴をあえて一言で言うと?

「あらゆることを生命として見よ」がドラッカーの基本思想です。マネジメントを含むドラッカーによるあらゆる知的体系がこの一本の糸でつながっています。「社会生態学」という言い方をしていますが、それぞれが複雑に絡み合い、固有の生きる力を持った自然生態を見るように、人と社会を見る。それが自分のスタイルなのだと言っています。

知識時代の生産性

―――生産性についてどんなことを言っているのでしょうか。

生産性について説明する前に、ドラッカーが重視する生産性の尺度について話しておいたほうがよいでしょう。代表的なセルフマネジメントの書物に『経営者の条件』(1967年)があります。原題はThe Effective Executiveです。これはいわゆる「超絶にできる人」といったニュアンスです。Effectiveですから、効率(efficiency)ではなくて、いわゆる効力性、有効性というか、どれだけ質的に貢献しえたかといった印象を与える語彙です。
今でも生産性というと効率のイメージが強いかもしれませんが、効率というのは生産性の定量的な側面、いわば一部分にすぎないのです。たとえば、工場での1時間で何千個ピンを生産できるかといった肉体労働なら、生産性を測るのはわりに楽なのだと思います。大量生産の時代や社会主義下では、生産性はメカニカルというか、数値的に客観的な管理が可能だったでしょう。
けれども、現代はいわゆる知識で価値を生み出していく時代です。知識というのはとても幅広い概念ですが、たとえばスマホのインターフェイスをデザインするにしても、Aさんがデザインを10点つくったから、5点しかつくらなかったBさんより倍優れているということはなかなか言えない。質的な評価を含むからです。知識社会では、人間の思考が価値創造の資源になるため、事実上生産性の源泉は無尽蔵です。
ですので、追求する生産性は、知識社会にあっては卓越性で評価すべきだと考えられているわけです。むしろ効率に伴う生産性は、それらに付随して向上するものと理解されているように見えます。
現在ごくありふれた仕事になっているデザインやコンサルティング、プログラミング、ウェブ編集、マーケティング、システムエンジニアリングなど、すべて芸術家というのは言い過ぎにしても、一定の理論とともに、高度な知覚、ときにはアーティスティックな技能さえをも必須とする仕事ばかりです。そしてその評価は一様ではない。画家の生産性が制作点数のみで測れないように、知識労働者の生産性も同様なのだろうと思います。もちろんあまり寡作では世の目にはとまりませんが。

―――つまり、卓越性が重要、ということでしょうか。

そうですね。その点、ドラッカーは卓越性をどう生むかにひたすらこだわり続けた人です。
その観点から、ドラッカーなどは文化という要因を重視しています。どんな国にも社会にも文化はあります。会社にも、チームにも、人にも文化はある。文化というのは、本当に千差万別で、指紋とか雪の結晶みたいに一つとして同じものがないのです。
マネジメントを考える上でも、ドラッカーは唯一の正解はないと断言しています。それらは文化に依拠しているわけですから。文化、英語でcultureですね。cultureを動詞でcultivate、すなわちすきや鍬で地面を耕すことを意味します。地面を育てて、そこに植物を繁茂させていく。日本語で言うと、「栽培」に近い語感でしょう。
マネジメントは土壌の上に育つ樹木に似ています。りんごやみかんの樹に「良い実をつけろ」と命令してもなかなか聞いてはくれません。生き物にはそれぞれの個性や自律性があるわけですから、むしろそれら固有のものを利用する形でしか成長や成果というものはないわけです。
ですから、生産性を最大化するには成長を手助けするのが最もいい。成長の方法はそれぞれ違うかもしれないけれど、成長を手助けする方向でエネルギーを費やしていくというのは、一つの原則あるいはマネジメントの文法と考えていいと思います。

シンプルな話、りんごを育てるとしましょう。品質の高いりんごをたくさん育てたいのは、誰もが願うところです。だったら、手っ取り早い話、りんごだけたくさん手に入れられればそんなにありがたいことはない。ですが、残念なことにそうはいきません。なぜなら、りんごはりんごの樹全体、それこそ見えざる根から枝葉に至るまでが豊かに育った「結果」としてできるものであって、りんごだけ天からふってきたり、地面から湧いてきたりすることはないわけですから。
事業における利益の考え方も同じなのです。それは事業全体の樹を健康に育てた結果として実る果実と考えられています。

―――なるほど。しかし、果樹でたとえるというのも、知識社会ではややアンマッチな印象があります。

とんでもない。農業は多数の知識をベースにした知識産業の代表といっていいと思います。とりわけ生きている存在と直に対峙して、固有性に働きかけて成果をあげるなどというのは、教育や医療に負けないくらいの高度な知識産業です。
江戸時代の代表的なマネジメントの実践者として有名な二宮尊徳が、農政家として知られているのはその表れだと思います。600を越える農村や組織を建て直し、自立できるようにした功績にはとても大きなものがあります。マネジメント実践として世界に冠たるものといってよいでしょう。
 
 

強みを見きわめる

ドラッカー著書
―――確かにそうですね。そう考えると一本の樹になぞらえる意味がわかってきました。

部分ではなく全体を見よというのが生命を見るときの要諦です。全体とは部分の総和ではないからです。一本の樹で言えば、全体としての樹というものは、根や幹、枝などの部分の合成物ではないと言うことです。石でしたら二つに割っても石のままですが、樹は生きものですから、うっかり切ったり折ったりしたら枯れてしまう。
昔から「桜切る馬鹿梅切らぬ馬鹿」と言います。樹によっても成長のための対処法は異なるのです。つまるところ、樹の固有の生態に応じて全体を豊かに育てていくことが、結果として生産性を高めてくれると言うことになります。樹を育てるには、根から幹、枝振り、葉を全体として観察して、繊細な配慮をもって向き合わなければならない。
繰り返しになりますが、「あらゆるものを生命として見る」これが大切なのだと思います。
同じことは自身を成長させるときにも言えるわけで、成果や生産性をあげたいと思ったら、自分自身を理解して、自分自身の卓越性に着目して、それらを育てていく必要があります。ドラッカーはその卓越性を「強み」と呼ぶのです。

―――就職活動などで、よく聞く言葉です。「強み」、もう少し説明していただけますか。

おおまかに言って、人が半ば生物的にもっている特性の中で、成果を生む源になっている要因を指しているようです。
ドラッカーは、強みというのは、仕事に就くはるか前から決まっていると考えています。あえて言えば、所与、つまり既に与えられたものとして考えていいわけです。自分自身の中で既に存在して働いているものなのですね。ちょうどりんごの樹にはりんごとしての強みや個性があるように。
弱みで誰かの役に立つのは難しいですね。強みを生かしてこそ、人は社会に貢献することができる。強みを見つけ、育てることは、生産性においてはもちろん、人生全体にとっても一つの責任なのではないでしょうか。

―――わかりやすいものがあれば教えてください。

一例を挙げれば、コミュニケーションにおける強みがあります。ドラッカーなどは言うのですが、何かを理解するときに、読むときに理解できる人と、聞くときに理解できる人――もちろん誰でも両方からある程度理解はできるわけですが――より有効で、楽なほうがあるというのですね。
たとえば、私などはどちらかというと聞き手です。聞いているときの方が、読んでいるときよりも楽に情報が入ってくるのです。耳から入った情報は強く記憶にも残っているように思います。ですから、私は暇さえあればラジオとか朗読とか音楽を聴いています。耳からの情報がまったく苦にならないからです。
読み手は反対ですね。資料でも本でも、何かを読んでいるときが楽なタイプです。どんどん情報が入ってくるし、記憶にも残る。本格的な読み手は、電車の中吊り広告でも、街の看板でも、隣の人の新聞でも、目に入る文字はかたはしから読もうとします。苦にならないのです。
もちろんハイブリッドの方もいますし、中には教えることで理解するという人もいます。いろいろですけれども、読むか聞くかという補助線をもつことで、コミュニケーションの特性の違いが理解しやすくなるのは確かです。
これなどは、組織の中で人とやりとりするときにとても役立つ考え方です。たとえば、上司への報告などは組織の中で避けて通ることのできないものの一つですが、「この人は読む人・聞く人どちらかな」と考えて行うと、情報共有の精度に違いが出てくると思います。
聞き手に文書で連絡してもなかなか読んでもらえませんし、読み手に口頭で言っても右から左に抜けてしまいます。コミュニケーションは、情報の受け手に合わせて行わないと無意味であるということだと思います。
同じことはリーダーシップについても言えます。リーダーはフォロワーがいなければ仕事ができません。だとすると、リーダーとしての仕事の質を決めるのは、フォロワーに理解して動いてもらえるかにかかっているわけです。そのためには、相互のコミュニケーション上の強みを知る必要がある。ドラッカーは「大工と話すときは大工の言葉を使いなさい」というソクラテスの言葉でそのことを説明しています。

―――一方で、強みがあるということは弱みもあると。

その通りです。弱みはあるどころか、大半は弱みで、強みはほんのちょっとしかないというのが現実なのではないでしょうか。私は強みを思うとき、南太平洋に浮かぶ埃のような島々を思い浮かべます。強みは大洋に比較するとほんのわずかとさえ言えないくらいの微々たるものです。微々たる強みにパワフルに働いてもらうという考え方です。わずかな強みをネットワーク化して、束ねて、最強のものにしていくというものです。まさに、これがマネジメントの原点にある考え方ですね。
しかも、たいていの人は、自分の弱みはそれなりに認識しているのに、強みについてあまりに乏しい認識しかもっていないことが多いと思います。とくに世の人は謙虚過ぎるのかわかりませんが、自分には強みがないとさえ思っている人がいます。けれども、強みをもたない人などいないのです。ただ、強みがあまりにも当たり前であるために、意識できていないだけなのですね。

―――努力して、弱みを強みに変えるのは?

ほとんど不可能ですね。というか、無理です。私の知るかぎりでも、弱みが努力によって強みに変わった例など見たことがありません。やめたほうがいいです。
なぜかはわかりませんが、人には理由もなくできることがあるものです。できてしまうといったほうがいいかもしれない。たいして努力もしないのにできてしまうことを、さらに努力したらどうなるでしょうか。まさにドラッカーの言う卓越性の源です。やはり強みを生産性の源に据えるべきだというのです。

生産性を高めるフィードバックの技法|ドラッカーに学ぶ生産性の高め方(後編)に続きます。

※本記事の内容は筆者個人の知識と経験に基づくものであり、運営元の意見を代表するものではありません。

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