「自分だけの視点」を手に入れよう【アート思考連載:第一回】

新連載のテーマは「アート」です。
「サイエンスという名のサイトなのにアート?」と思われたかたもいらっしゃるかもしれません。しかし、アートは、単なる楽しみにとどまらず、自分なりの考えを生み出すための要素でもあります。言いかえれば、これからの世界を生きるためのひとつの技術、と捉えてもいいかもしれません。
これを解説してくれるのは、『「自分だけの答え」が見つかる 13歳からのアート思考』の著者・末永幸歩さん。同著は、藤原和博や山口周さん、そしてサイエンスシフトにも登場していただいた佐宗邦威さんら各界のリーダーが勧める、優れた1冊。そのエッセンスをご紹介いただきました。

アート鑑賞でわかるー自分なりの視点がある人とない人の決定的な違い

早速ですが、つぎの絵を鑑賞してみてください。

Claude Monet, Water Lilies, 1905

 
さて、ここであなたに2つ質問があります。

Q1 この絵について語れますか?

この質問に自身を持って「はい!」と答えられる人は非常に少ないのではないでしょうか。
「なんとなく見たことがある気がするけれど、語るには自信がないな……」という人がほとんどではないかと思います。

美術館に時々行くことがあるという私の知人に同じ質問をしてみると、こんな答えが返ってきました。
「えっと、モネの作品かな。モネは印象派で有名な人だよね。印象派は光をきれいに描くのが特徴だったと思う」

さて、あなたはこの絵についてどのように語ったでしょうか? それでは次の質問です。

 
Q2 さきほどあなたは何秒間ぐらい絵に目を向けていましたか?

冒頭で私は「この絵を“鑑賞”してください」と書きました。しかし、おそらくほとんどの人が、「ほんの数秒」または「ほんの一瞬」絵に目をやった後、今この文章へと読み進めているのではないでしょうか。

美術館で作品を鑑賞するときにも、同じことが言えそうです。

美大生だった私は美術館に行くことも多かったのですが、思い返してみると、いつも1つの作品を見ていた時間はほんの数秒間程度でした。作品を見る時間よりも、作品に添えられたキャプションを読んでいる時間のほうがずっと長かった気がします。

また、作品について語るときも、作者名や題名などキャプションに書いてあったことや、解説書を読んで得た知識を要約していただけだったのです。

これでは「アート鑑賞」というよりも、作品情報と実物を照らし合わせる「確認作業」のために美術館に行っていたようなものです。

「美術館でアートを観てきた」というと、あたかも創造性が刺激され、心豊かになったかのような感じがしますが、じつは多くの人がアート作品を前にしても、ただ「正解探し」をしているのです。

4歳のこどもに見えていた“あるもの”とは?

「かえるがいる」

岡山県にある大原美術館で、4歳の男の子がモネの《睡蓮》を指差して、こんな言葉を発したことがあったそうです。

みなさんは冒頭の絵のなかに「カエル」を発見できましたか?

わざわざ見返して「カエル探し」をしていただいた方にはお気の毒ですが、じつをいうと、あの作品のなかに「かえる」は描かれていません。

その場にいた学芸員は、「えっ、どこにいるの」と聞き返しました。男の子はこう答えたそうです。

「いま水にもぐっている」

私はこれこそが本来の意味での「アート鑑賞」なのだと考えています。

その男の子は、作者名や作品名といった表層的な知識や解説文に書かれた情報に「正解」を見つけ出そうとはしませんでした。
むしろ、自分の目で作品そのものに向き合うことで、「彼なりの答え」を手に入れています。

 

なぜいま「アート」なのか?

昨今、ビジネスの世界は「正解を見つけ出す力」や「課題解決力」だけでは立ち行かなくなっています。

そこには、大きく変化している時代背景があります。 戦後の高度成長期以来、「課題が溢れかえっていて、モノが不足している」という状態が長く続いていました。
たとえば、テレビ・洗濯機・冷蔵庫は「三種の神器」とも呼ばれ、誰もが抱える生活の課題を解決してくれる必須道具として重宝されました。
「多くの人々に共通する価値観」がはっきりとしていたのです。

そのような時代には、ある方程式に基づいて正解を見つけ出したり、課題を解決することが最重要視されてきたのです。

しかし、人々の努力によってさまざまな課題が解決され、それらが改善・改良されていった結果、「多くの人に共通する課題が減り、モノが溢れかえっている」という社会の状態に変わっていきました。

たとえば、テレビが家庭にやってきて、それが白黒からカラーになったとき、人々の生活は格段に便利で豊かになったことは容易に想像できます。
しかし今、テレビが4Kになっても8Kになっても、購買者にはもはやあまり響かないのです。
生活水準が引き上げられた人々の価値観は、どんどん多様化しています。

「人々に共通する課題」も、「唯一の正解」というものも見つけにくくなくなった現在、従来のやり方だけを適用して正解を追い求めていくのは限りなく難しいし、もはや無意味ともいえるのです。 

優秀だった人ほど、自分なりの答えを持てないワケ

これは、教育でもいえることです。

みなさんが受けてきた教育システムというのは、18世紀半ばから始まる産業革命の時代の西洋社会でつくられたものがベースとなっています。

国をあげて産業を発展させていくために、まず大切なのは人材育成でした。
正解をいち早く導き出し、課題を最短ルートで解決できる、いわば「工場の機械」のような人材が大量に必要だったのです。

工場型の教育では、非効率なことは徹底的に排除する必要があります。
その代表格が「疑問を持つこと」や「質問をすること」です。工場で、いちいち疑問を持って立ち止まっていては、生産性が下がってしまうからです。

みなさんが受けてきた教育や現在の教育にも、似通った部分があるのではないでしょうか。時代は大きく変化しているにもかかわらず。 

「自分なりの答えをつくる」とは?

さて、「正解を見つけ出す力」や「課題解決能力」だけでは立ち行かなくなったこの時代に重要になってくるのは、一体どのような力なのでしょうか?

きっとそれは、「価値を生み出す力」「意味を作り出す力」であるはずです。
そのためには、「自分なりの視点」でものごとを捉えて、「自分なりの答えをつくる」という作業が欠かせません。

そうはいっても、「『価値を生み出す』だなんて、難しくて自分にはできそうもないな……」と感じる人は多いと思います。
たしかに、「新たな価値を生み出すぞ!」と意気込んでうまくいった例を私は聞いたことがありません。

新たな価値や意味というのは、自分自身の興味・好奇心・疑問に向き合って自分なりの視点を追求した結果、事後的に生まれるものだからです。

アート思考とは「自分だけのカエル」を見つける作法

自分なりの視点を掘り下げ、自分だけの答えをつくるのに、私はアートほど適したものはないと考えています。

「アートなんて学んで意味があるの?!」と笑われてしまいそうですが、私がいうアートとは、上手に絵を描いたり、器用にものを作ったり、名画の知識を身につけたりすることではありません。

私はよく、アートを「植物」に例えています。ここで、「アートという植物」を見てみましょう。

アートという植物は、地表に「表現の花」を咲かせています。これは、多くの人がアートと聞いてまず思い浮かべる「作品」にあたります。
しかし、この植物の全体像を見てみると、「花」はほんの一部に過ぎないということに気がつくはずです。

地中には、アーティストの「興味・好奇心・疑問」が詰まった「興味のタネ」があり、そこから巨大な「探究の根」が伸びています。
アーティストにとって重要なのは、地表に咲く「花」ではなく、むしろ地中にある、「タネ」から「根」の部分なのです。
 
「アート思考」とはまさにこうした思考プロセスであり、「自分だけの視点」で物事を見て、「自分なりの答え」をつくりだすための作法です。

もう少し柔らかくいえば、あの4歳のこどものように「自分だけのカエル」を見つける方法なのです。

見栄えのいい「花」を目的にしない

社会に出て働いてみると、「この環境で、うまくやっていかなきゃいけない」「成果をださなければいけない」という葛藤のなかで、自分自身の「興味のタネ」や「探究の根」にフタをしてしまいがちです。

しかし、地上に強風が吹き荒れて、「花」が摘み取られるような事態に直面したとき、花を咲かせることだけに専念してきた人はきっと途方にくれてしまうはずです。

そんなとき、「タネ」から「根」を豊かに伸ばしていれば、何度でもまた新しい花を咲かせることができるはずです。

大学生のみなさんにとって、時間があるいまこそ、自分なりの「興味のタネ」に向き合い、「探究の根」を伸ばしてみるチャンスなのだと思っています。

* 記事中の画像は、本エピソードにおける《睡蓮》とは別のものです。「かえる」のエピソードについては、次の文献を参照。
大原美術館 教育普及活動この10年の歩み編集委員会編『かえるがいる 大原美術館教育普及活動この10年の歩み 1993-2002』大原美術館、2003年

 

※本記事の内容は筆者個人の知識と経験に基づくものであり、運営元の意見を代表するものではありません。

 

 

シェアする

関連記事

Search