東大「現代文」の知識を仕事に生かす〜〈具体〉と〈抽象〉の関係をとらえる【相澤理氏連載:第三回】
『東大のディープな日本史』や、『「最速で考える力」を東大の現代文で手に入れる』の著者・相澤理さんによる東大現代文連載の第三回をお届けします。
今回も実践編です。前回解説していただいた〈幅の広い指示語〉と並んで出現頻度の高い言葉の〈サイン〉について解説していただきました。
過去の連載記事はこちらから
東大「現代文」の知識を仕事に生かす〜知識を身につけ本をきちんと読む方法【相澤理氏連載:第一回】
東大「現代文」の知識を仕事に生かす〜「幅の広い指示語」を理解する【相澤理氏連載:第二回】
◆
意外と奥深い「たとえば」の働き
前回は、書き手が要点を示す言葉の〈サイン〉として最も出現頻度の高い、「このように」などの〈幅の広い指示語〉について解説しました。〈幅の広い指示語〉は、そこまで述べてきた具体的な内容をまとめる働きをしましたね。
これに対して、今回解説する「たとえば」は、これから具体的な内容を述べていきますよという〈サイン〉です。
評論文では抽象的な概念を用いて議論をしていきますが、理解するのは容易ではありません。そこで、書き手は具体例を用いて読み手にわかるように説明していきます。そのとき、具体例の始まりを示すのが「たとえば」です。
皆さんも、「具体例の部分はカッコに入れて書き手の主張をつかみなさい」といった指導を受けたことがあるでしょう。たしかに、具体例は書き手の主張ではありません。しかし、具体例は読み飛ばして良いのかと言えば、それは違います。
先に述べたとおり、具体例を用いるのは抽象的な概念をわかりやすくするためです。当然、具体例の意味を理解してこそ、抽象的な概念で書かれた書き手の主張も理解できます。ですから、その具体例にどのような意味があるのか、具体例と抽象的な概念(主張)の関係を捉えることが肝心です。
それとともに、「具体例の部分はカッコに入れて」と言葉でいうのは簡単ですが、実際に評論文を読んでいると、具体例の範囲を確定するのは難しいものです。
そこで、言葉の〈サイン〉に注目しましょう。具体例の始まりを示すのが「たとえば」です。そして、終わりには、〈幅の広い指示語〉や、同じくまとめの働きをする「つまり」「要するに」などの接続語を用います。
また、具体例が終わったあとでも抽象的な概念で書き手の主張が示されます。つまり、文章は〈抽象的な概念(主張)→具体例→抽象的な概念(主張)〉と進んでいくわけです。ですから、具体例を挟む前後の抽象的な概念(主張)が同じ内容であることを確かめながら読み進めましょう。
ありふれた言葉のように思える「たとえば」ですが、論の組み立てを示す奥深い〈サイン〉であることに気づきますね。
東大「現代文」の問題にチャレンジ
それでは今回も東大「現代文」の問題をご覧ください。入試現代文で最頻出の筆者である、哲学者の鷲田清一氏の文章です。鷲田氏の文章が問題文としてよく利用されるのは、内容的な面白さもさることながら、言葉の〈サイン〉の用い方が巧みであることも理由として挙げられます。そうした点にも注目しながら、文章を読み、解答を作成してみてください。
〈例題(1999年度・文理共通第1問)〉
身体(からだ)は、ひとつの物質体であることはまちがいないが、それにしては他の物質体とはあまりに異質な現われ方をする。
たとえば、身体はそれが正常に機能しているばあいには、ほとんど現われない。歩くとき、脚の存在はほとんど意識されることはなく、脚の動きを意識すれば逆に脚がもつれてしまう。話すときの口唇や舌の動き、見るときの眼についても、同じことが言える。呼吸するときの肺、食べるときの胃や膵臓(すいぞう)となれば、これらはほとんど存在しないにひとしい。つまり、わたしたちにとって身体は、ふつうは素通りされる透明なものであって、その存在はいわば消えている。が、その同じ身体が、たとえばわたしが疲れきっているとき、あるいは病の床に臥しているときには、にわかに、不透明なものとして、あるいは腫(は)れぼったい厚みをもったものとして、わたしたちの日々の経験のなかに浮上してくる。そしてわたしの経験に一定のバイヤスをかけてくる。あるいは、わたしの経験をこれまでとは別の色で染め上げる。ときには、わたしと世界とのあいだにまるで壁のように立ちはだかる。わたしがなじんでいたこの身体は、よそよそしい異物として迫ってきさえするのである。
(鷲田清一『普通をだれも教えてくれない』)
問 「わたしがなじんでいたこの身体は、よそよそしい異物として迫ってきさえする」とあるが、このようなことが起こるのはなぜか、その理由を説明せよ。(60字程度)
疲れているときは、足が鉛になったように動かなくなりますから、「よそよそしい異物」という表現にはリアリティが感じられますね。
さて、本文は、第1段落で筆者である鷲田氏の主張が示されたうえで、続く第2段落で具体例を用いて説明される、という構成になっています。
第1段落で指摘されているのは、「身体(からだ)」が「ひとつの物質体」でありながら、「他の物質体とはあまりにも異質な現われ方をする」という、対立する2つの要素です。
これを踏まえて第2段落に進むと、冒頭と中ほどにある「たとえば」が、後者の、「他の物質体とはあまりにも異質な現われ方をする」についての具体例を引き出していることがわかります。
一つめの「たとえば」から始まる具体例は「つまり」で終わり、「わたしたちにとって身体は、ふつうは素通りされる透明なもの」とまとめられています。そういうことは「他の物質体」にはありませんね。
この内容を「が」と逆接で受け、2つめの「たとえば」が現れます。後半の具体例は、最後の一文の直前までいき、問いの箇所のようにまとめられているわけです。
「わたしがなじんでいたこの身体」は、前半の具体例に対応しています。「正常に機能している」ときは、「ほとんど意識されることはない」わけです。しかし、その身体が「よそよそしい異物として迫ってきさえも」します。これに対応しているのが後半の具体例ですが、前半の内容をひっくり返せば一般化できます。つまり、病などで正常に機能していないときは、自分の身体なのに自分の身体ではないように意識される、ということです。
このように、状況によって意識されたり意識されなかったりする点が、第1段落で言う「他の物質体とはあまりにも異質な現われ方」なのです。
以上の内容を踏まえて、解答を作ってみましょう。
解答例
身体は正常に機能しているときは意識されないが、思いどおりに機能しないときには意識され、ふだんとは異なる経験をさせるから。(60字)
文章は〈具体〉と〈抽象〉の繰り返しでできている
〈幅の広い指示語〉と「たとえば」が、出現頻度の高い言葉の〈サイン〉であるのには理由があります。それは、文章(評論文)は〈具体〉と〈抽象〉の繰り返しでできているからです。
〈抽象〉的な議論というのは、頭の中で考えたものにすぎないので、書き手は〈具体〉例を用いてわかりやすく説明します。そして、それをもう一度〈抽象〉化してまとめたうえで、議論を先に進めていき、そこでも〈具体〉例を用いる。こうして、〈具体〉と〈抽象〉は鎖のようにつながっていくわけで、そのつなぎの役目をしているのが、〈幅の広い指示語〉であり「たとえば」なのです。
それとともに、書き手の主張は〈抽象〉にあるということにも注目してください。
〈抽象〉とは、具体的な事物から共通する要素を取り出すことです。リンゴ・バナナ・メロンを〈抽象〉化すれば「果物」、サッカー・水泳・柔道を〈抽象〉化すれば「スポーツ」となります。
このとき、〈具体〉的な事物はその一つのことしか指し示せませんが、〈抽象〉化された内容は多くの事物に適用できます。だから、〈抽象〉の方が主張なのです。
次回は、本連載の締めくくりとして、文章を理解するうえで、というよりも、人間を理解するうえで最も重要な言葉について解説します。皆さんもその言葉が何かを考えながらお待ちください。
東大「現代文」の知識を仕事に生かす〜「逆説」を理解することは人間を理解すること【相澤理氏連載:第四回】
【書籍紹介】
著者:相澤理(KADOKAWA)
短い制限時間内で物事を処理し、問題解決するために必要な「最速で考える力」。現代社会において必要なスキルである、その「最速で考える力」が手に入るのが東大の現代文です。東大現代文の実際の入試問題をトレーニング材料にした、一流の思考法を養うための最強の1冊となっています。
※本記事の内容は筆者個人の知識と経験に基づくものであり、運営元の意見を代表するものではありません。